(ウェジー)家庭教育支援法案によって虐待やネグレクト、引きこもりは防げるか―厚木男児遺棄放置事件から【「家庭教育支援法案」の何が問題か?】_杉山春報告

ウェジーによる院内集会「「家庭教育支援法案」の何が問題か?」の報告記事、3回目はルポライターの杉山春さんのお話です。

http://wezz-y.com/archives/52402

1月29日、衆議院第二議会会館にて、自民党が国会提出を目指している「家庭教育支援法案」の問題点や懸念を示す集会が「24条変えさせないキャンペーン」によって開かれた。

2017年2月の朝日新聞によれば、「家庭教育支援法案」には、「家庭教育を『父母その他の保護者の第一義的責任』と位置づけ」、「子に生活のために必要な習慣を身に付けさせる」ことや、支援が「子育てに伴う喜びが実感されるように配慮して行われなければならない」ことなど」が盛り込まれ、さらに素案段階には存在していた「家庭教育の自主性を尊重」が削除されている、という。また、家庭教育の重要性や理解、施策への協力を、地域社会の「役割」(責務から役割に変更された)とも規定されている。

ここからわかることは、「家庭教育支援法案」には保守的な家族規範を強化、公権力が家庭に対して介入する可能性があること、そして地域社会によるプライバシーの侵害や監視社会化など、様々な危険性があるということだ。「家庭教育支援法案」の何が問題か、29日に登壇した弁護士の角田由紀子さん、室蘭工業大学大学院准教授の清末愛砂さん、ルポライターの杉山春さんの発表の様子をお送りする。

家庭教育支援法案は、再び「女・子ども」を底辺に押しやりかねない
家庭教育支援法案が家庭内の暴力防止になりえない理由
家庭教育支援法案によって虐待やネグレクト、引きこもりは防げるか

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ルポライターの杉山春です。私は今まで児童虐待について3つの事件を取材してきました。今日は、現実でどういうことが起きていて、子どもがどういう形で亡くなっていくのかについてお話したいと思っています。

2000年、児童虐待防止法が作られた年に、愛知県武豊町で3歳の女の子がダンボールに入れられ餓死するという事件がありました。この事件について私は『ネグレクト 真奈ちゃんはなぜ死んだか』(小学館文庫)という本で発表しています。それから10年後、大阪府西区で3歳の女の子と1歳半の男の子が、風俗店の寮に50日間放置され亡くなった事件を取材し『ルポ虐待 大阪二児置き去り死事件』(ちくま新書)を書きました。そして昨年12月に出した『児童虐待から考える 社会は家族に何を強いてきたか』(朝日新書)では、2014年に厚木市で発覚した事件について書きました。今日はこの厚木事件についてお話をします。

厚木事件は、5歳の頃に亡くなった男の子が、7年4カ月間、厚木市内のアパートに放置され、白骨死体で見つかったというものです。家はゴミ屋敷で、子どもが出ていけないように外側から扉に粘着テープも貼り付けられていて、当時37歳だったトラック運転手のお父さんを「本当に酷い父親だ」と批判する報道がなされていました。

一審の裁判では、子どもは亡くなる1カ月間前にはガリガリの姿をしていたはずで、医者に見せることも家族にSOSを出すこともしていなかったのは殺意があったからだ、ということで、お父さんには殺人罪として19年という非常に重い判決が下っていました。

実は私は厚木事件に直接関わってしまっています。最初の判決の後、亡くなった男の子は白骨遺体で見つかっているため、本当にガリガリだったのかわからないのではないかということを法医学の先生たちから伺い、弁護士に伝えました。どんなにまるまるとした男の子だったとしても、7年も経てばそのことがわからないような姿になってしまうそうです。二審では、保護責任者遺棄致罪として、12年の判決が下っています。

厚木事件が他の事件に比べて特徴的なのは、お父さんが子どもの存在を一切周囲に伝えていなかったことです。一度だけ、お母さんが子どもを置いて家出したときに、児童相談所に繋がってはいるのですが、そのときは迷子ということにされ、児童虐待という判断はされませんでした。そのため社会が、この家に子どもがいること、困っている家族がいるかもしれないということがわかっていなかったんです。

裁判を傍聴する中で、この家は雨戸が締められ、真っ暗闇のゴミ屋敷で、電気、ガス、水道も止められていたこと、父親はそんな家に2年間、朝晩帰っていたこと、子どもにはおにぎりやパン、コンビニ弁当や飲み物を与え、おむつも替えていたこと、一緒に寝たり遊んでいたりした形跡があることなどがわかってきます。

はたから見れば圧倒的に不思議な子育てですが、実はお父さんには軽度な知的障害がありました。知的なハンディがある中で子育てをしている方への支援者に取材したところ、知的なハンディは、トラック運転のような具体的なことはできても、自分や子どもが将来どうなっていくのかなど将来を見通すことや、必要な情報を社会からとってくるといったことが苦手だそうなんです。

実際、このお父さんはトラック運転手としては評価Aを得ていたそうです。求められることには従順なのですが、いま何に困っているのか、どういう支援がほしいのかといったことを社会に向かっては言えないタイプのお父さんだったんですね。亡くなった男の子はもう少ししたら小学校に入るはずだったのですが、深く考えたことはなかったと言っていました。児童相談所があることも知りませんでしたし、保育園のことは知っていても、早朝の仕事なので無理だと思った、とも言っていました。

もうひとつ裁判の中で明らかになったことは、お父さん自身も精神障害を持っているお母さんに育てられていた、ということです。私はお父さんと拘置所で話したり、手紙でやりとりをしたりもしています。いろいろと質問する中で、お父さんに「あなたの小さい時の記憶は何歳からありますか?」と聞いたところ、「12歳」と答えました。1歳年下の妹さんに同じ質問をすると、「11歳」と答えます。この年齢というのは、お母さんの病気が明らかになり病院に入院し、家庭の中におばあちゃんが入っていった年なんです。「あなたは小さい時に三度三度ご飯を食べていましたか?」と聞いても、「記憶にない、おばあちゃんが家に来てからは三度三度ご飯を食べていた」と答えていました。

子育てというのは、親からしてもらったことをするところがあります。ですからこのお父さんのように、母親の記憶がない中での子育てというのはとても難しいところがあります。

また、お父さんは県立高校卒業後、専門学校にはかなり無理な入り方をしていて、片道3時間もかかるような学校に通っていました。もしかしたらご家族にも、判断をする力がなかったのかもしれません。そういう中で、高校にも通えなくなってしまい、社会にうまく繋がっていけなくなってしまいます。

退学後、お父さんはアルバイトを経て、ペンキ職人になります。ところがペンキ職人は、雨が降ると仕事がなくなってしまうため、収入も減ってしまいます。また、その頃に17歳の女の子が転がり込んできて妊娠します。周囲に認めてもらい結婚し、家族を作るのですが、お金が足りなくなることも増え、借金の問題を抱えるようになります。そこで正社員のトラック運転手に転職しました。

トラック運転手というのは、荷待ちなどがあるため、293時間という長い拘束時間が公的に許されている職業なんですね。次第に、夫婦間の喧嘩も増え、10代のお母さんと23歳のお父さんはうまく子育てができず、さらに実家との関係もよくない、という孤立状態に置かれていきます。そして、お母さんは家を出ていき、残されたお父さんは先程お話したような子育てを2年間続けていました。

愛知県武豊町で事件が起きた2000年に比べて、現在は公的な支援も多様になり、研究も進んでいます。そうした中で、子どもを殺してしまうほどの親というのは、実は幼いときから社会に助けられた経験がなく自分たちの思いに親が応えてくれた経験もなかったことがわかってきています。社会への不信感がとても強く、さらに「家族であれば子育てをきちんとしなければいけない」という感受性を、どの事件の親も持っている。だからこそ、自分が子育て出来ていないこと、うまく生きられない自分を隠してしまう、そして子どもがネグレクトされてしまうんです。

家族規範は昔よりゆるくなっていると感じている方もいるかもしれませんが、現場で取材をしていると、お母さんであれば子育て出来なければいけないとか、家族でしっかり子育てしなければいけないという思いを強く持っている方は多くいます。そんな人たちに「あるべき家族像」を示したとしても、助けを得られるということも知らないわけですから、その家族像に自分を当てはめようと今まで以上に頑張ってしまいかねません。

大阪の事件では「子どもを放置した風俗店の女性」と報道されていましたが、取材してみると、お母さんとして頑張っている時期があったんです。頑張れていたときは、生活している町が用意している子育て支援のメニューを全て使っていて、頑張れなくなったときに公的な支援に頼れなくなっていったことがわかってくるんですね。

虐待事件を取材する中でお伝えしたいことは、子どもを虐待死させた親は子どもをしっかり育てたいと思っていた時期もあったということです。でも、困難な家ほど、家族規範が強く、自分ひとりで頑張ろうとしてしまう。社会に向かって必要な情報や権利をとってくるというのは知的な能力や他者とのコミュニケーション能力を必要とすることです。そういう力が乏しければ乏しいほど、家族規範や社会規範を内面化し、「一生懸命頑張ればうまくいくはずだ」と思い、どんどん追い詰められていくのだと思います。

最後に、厚生労働省が昨年8月に出した、「新しい社会的養育ビジョン」についてお話させてください。

この「新しい社会的養育ビジョン」と家庭教育支援法案は、どちらも家庭の中に公的な権力が入っていくものとして不安を抱く人がいるかもしれません。違いが見えにくい部分があるのですが、「新しい社会的養育ビジョン」は、家族で完結して子育てしなければいけないという価値観は、社会の周辺部で、いろいろな意味での困難を抱える人達にはもう無理だということで、どういう支援を入れるべきかを考えるための新しい動きなんですね。育児が困難な家庭から子どもを引き取ってしまえ、という話ではなく、地域の中で子どもも親も支援していこうというものです。家族規範に縛られて子どもに適切なケアができなくなっている家族に、子どもを権利の主体として、最善の利益を実現するために、その家族が必要とする支援を届けることを考えています。

誤解されたまま、「新しい社会的養育ビジョン」が潰されてしまう可能性もあるので、家庭教育支援法案とは違うものだと理解していただければ、と思います。

(ウェジー)家庭教育支援法案が家庭内の暴力防止になりえない理由【「家庭教育支援法案」の何が問題か?】_清末愛砂報告

ウェジーによる院内集会「「家庭教育支援法案」の何が問題か?」の報告記事、2回目は清末愛砂さんのお話です。

http://wezz-y.com/archives/52401

家庭教育支援法案が家庭内の暴力防止になりえない理由【「家庭教育支援法案」の何が問題か?】

1月29日、衆議院第二議会会館にて、自民党が国会提出を目指している「家庭教育支援法案」の問題点や懸念を示す集会が「24条変えさせないキャンペーン」によって開かれた。

2017年2月の朝日新聞によれば、「家庭教育支援法案」には、「家庭教育を『父母その他の保護者の第一義的責任』と位置づけ」、「子に生活のために必要な習慣を身に付けさせる」ことや、支援が「子育てに伴う喜びが実感されるように配慮して行われなければならない」ことなど」が盛り込まれ、さらに素案段階には存在していた「家庭教育の自主性を尊重」が削除されている、という。また、家庭教育の重要性や理解、施策への協力を、地域社会の「役割」(責務から役割に変更された)とも規定されている。

ここからわかることは、「家庭教育支援法案」には保守的な家族規範を強化、公権力が家庭に対して介入する可能性があること、そして地域社会によるプライバシーの侵害や監視社会化など、様々な危険性があるということだ。「家庭教育支援法案」の何が問題か、29日に登壇した弁護士の角田由紀子さん、室蘭工業大学大学院准教授の清末愛砂さん、ルポライターの杉山春さんの発表の様子をお送りする。

家庭教育支援法案は、再び「女・子ども」を底辺に押しやりかねない
家庭教育支援法案が家庭内の暴力防止になりえない理由

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室蘭工業大学大学院の清末愛砂です。私は家庭教育支援法案の問題点について、日本国憲法の観点から説明したいと思います。

家庭教育支援法案は主には前文、9条、13条、24条、25条に抵触する可能性が非常に強いと思っています。憲法98条は「日本国憲法が最高法規である。その条規に反する法律等は、その効力は有しない」ことを規定しています。また前文でも第一段で「日本国憲法の原理に反する一切の法令を排除する」ことが明記されています。家庭教育支援法は、前文の段階で成立し得ないものだと私は考えています。

ではなぜこれらの憲法上の規定に反するのかという点を「平和主義」「自由権」「社会権」の観点から話したいと思います。

まず「個人の尊重」を謳っている憲法13条と「個人の尊厳」を謳っている憲法24条の違いについてお話します。これらふたつを共に考えることによって、社会は家族ではなく個人によって形成されているものだということを再確認できます。

憲法13条:すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

憲法24条:婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。

私は「個人の尊重」は自己決定権のことであり、「個人の尊厳」とは「侵してはならないもの。侵されたときには抵抗し、救済措置を求めることが出来るもの」だと思っています。大日本帝國では、家族が社会の基礎単位として位置づけられ、個人の人格が蹂躙されていました。「家庭生活における個人の尊厳と両性の本質的平等」を明確に謳っている24条の大きな意義のひとつは、大日本帝國のあり方を否定していることにあります。日本国憲法では、個人の人格の尊重と尊厳に基づいて社会や家族が形成されることを、日本のあり方として示しているわけです。

以上を踏まえた上で、平和主義の観点から考えていきましょう。

一般的に日本国憲法の平和主義というのは、前文と9条だけでイメージされることが多いと思います。しかし憲法学者によって解釈に違いはありますが、日本国憲法の平和主義は前文と9条だけで達成できるものではありません。前文、9条、13条、法の下の平等を謳う14条、24条、そして生存権が書かれている25条によって、成り立っているものだと私は考えています。

そもそも日本国憲法の原理のひとつである平和主義のオリジナルな意味は、非暴力な手段によって非暴力な社会を作る、ということにあります。その観点から考えてみると、戦争がないことだけが平和を意味するわけではないことがわかります。家庭生活で様々な暴力や差別が存在するのであれば、その被害を受けている者にとっては、そのような生活は平和なものとはいえません。

憲法24条は、平和主義の観点から様々な形態の家族に対し主には次の2点を求めていると思います。まずは、いまお話したように、戦場で武器を持って戦うこと、家庭内のDVなどを含む各種の暴力に依拠しない人間を育てる場としての家族になる、ということ。そしてもうひとつが、軍国主義、愛国心を強制しようとする国家政策に従わない人間を育てる場としての家族になる、ということです。すなわち、自立した非暴力な権利主体としての個人を形成することを24条は求めているわけですね。

しかし家庭教育支援法というものは、明らかに現行の教育基本法とセットとなって、愛国心を強化するツールとして使われる可能性があります。私は、家庭教育支援法案の目的は、愛国心を有する人材の形成を、家庭教育を通して行うことにあると思っています。これは24条の平和主義と真っ向から対立するものです。また、子育てする家族に対して愛国心を植え付ける教育を押し付けるような法律は、憲法19条が保障する「思想・良心の自由」を否定することにもなるでしょう。

最後に、自由権と社会権について、です。

自由権と社会権の違いを非常に簡単に説明すると、自由権は公権力の支配から自由であること、介入を受けないことで個人の人権を保障するという19世紀以降に発展してきた考え方です。一方の社会権は、公権力が弱い立場にある労働者の権利や人々を貧困等から救済するための社会保障制度等を導入すること、すなわち公権力の介入により人権を保障するという20世紀以降に発展した考え方です。共通する目的は、基本的人権の保障にあります。

自由権は、全ての者の権利を保障する土台にはなりますが、これだけでは例えば表現の自由を悪用してヘイトスピーチを垂れ流したり、それを扇動するような人や労働者を搾取して利益をむさぼるような強者の立場にいる者を利することになりかねません。だからこそ、社会的に弱い立場に置かれている人たちの権利を保障するための社会権が必要となってくるわけです。

一見ぶつかりあうようにみえる自由権と社会権ですが、自由権を意識した上で、その権利を正当に行使できる社会環境を整えていくための制度づくりを求める権利が社会権になります。これを具体化するための政策を考え、実施することが求められます。この発想から、家庭教育支援法案の問題点を指摘していきます。

家庭教育支援法案ではその目的として、家庭と地域社会との関係が希薄になったことで家庭を巡る環境が変化したために、家庭教育を支援することが掲げられています。ここには、家族の絆と地域における繋がりを強化しようとする発想がみられます。このような発想は、家族の助け合いの名の下で社会保障を削減する危険性を持つものです。つまり社会権の否定になりかねないものなのです。地域社会でいろいろなコミュニティが助け合いをすることは大切ですが、下手をすれば地域の中で監視し合うといった、大日本帝國時代の「隣組」のようなものになる可能性すらあります。

「児童虐待が起きている家族への介入を認めないのか」「家庭教育支援法案によって、家族内で起きている暴力を早期発見できるのではないか」と主張する人もいるでしょう。しかし私はこうした主張に対し、社会権の一環として行う介入と家庭教育支援法案に基づく介入はまったく違うものだと反論します。

先程も言った通り、社会権と自由権はともに基本的人権の保障を目的としているものの、ベクトルの向きが異なります。もしも「児童虐待を防止するために公権力の介入は必要か」と問われれば、私は「必要だ」と答えます。しかしそれは自由権を否定することを意味しません。むしろ広い意味での社会権として弱者を救済するためには、何らかの介入が必要と考えています。

ポイントは、虐待などを防止するためには、家庭教育支援法案のような問題のあるものではなく、24条の立法精神に基づき、生存権を規定する25条の下で、児童虐待防止法や児童福祉法などの個別法を拡充させていくことにあります。また、深刻な問題となっている女性と子どもの貧困についても、生活保護や就労支援策を拡充していかなければならないと考えますが、これは家庭教育支援法案とはまったく関係のない問題です。

家庭教育支援法案は他にも問題があります。この法案には、父母その他の保護者を対象に、自立心を育成し心身の調和の取れた発達を図ることを目指すとありますが、これは国家が一律に父母その他の保護者に対し理想的な家族像を上から示すこと、すなわち公的に求められる家族像を一方的に示す手段になりかねません。したがって、自由権を脅かす法律になる可能性もあるのです。

社会権と自由権というベクトルの向きが異なるものを、公的介入という一つの言葉によって「家庭内で起きている児童虐待等の暴力の早期発見に繋がる」と取り違えてしまうと、愛国心の強化や改憲の外堀を埋めることを目的としている家庭教育支援法案の罠にはまります。本日私が行いたかった問題提起の核心はこの点にあります。

(ウェジー)家庭教育支援法案は、再び「女・子ども」を底辺に押しやりかねない【「家庭教育支援法案」の何が問題か?】_角田由紀子報告

24条キャンペーン主催の院内集会の模様を、ウェジーがアップしてくれました! 角田由紀子さん、清末愛砂さん、杉山春さんの報告が、ほぼそのまま、3回にわけてアップされます。ぜひ広めてください。

http://wezz-y.com/archives/52400

家庭教育支援法案は、再び「女・子ども」を底辺に押しやりかねない【「家庭教育支援法案」の何が問題か?】

1月29日、衆議院第二議会会館にて、自民党が国会提出を目指している「家庭教育支援法案」の問題点や懸念を示す集会が「24条変えさせないキャンペーン」によって開かれた。

2017年2月の朝日新聞によれば、「家庭教育支援法案」には、「家庭教育を『父母その他の保護者の第一義的責任』と位置づけ」、「子に生活のために必要な習慣を身に付けさせる」ことや、支援が「子育てに伴う喜びが実感されるように配慮して行われなければならない」ことなど」が盛り込まれ、さらに素案段階には存在していた「家庭教育の自主性を尊重」が削除されている、という。また、家庭教育の重要性や理解、施策への協力を、地域社会の「役割」(責務から役割に変更された)とも規定されている。

ここからわかることは、「家庭教育支援法案」には保守的な家族規範を強化、公権力が家庭に対して介入する可能性があること、そして地域社会によるプライバシーの侵害や監視社会化など、様々な危険性があるということだ。「家庭教育支援法案」の何が問題か、29日に登壇した弁護士の角田由紀子さん、室蘭工業大学大学院准教授の清末愛砂さん、ルポライターの杉山春さんの発表の様子をお送りする。

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弁護士の角田由紀子です。

憲法24条(※編集部注1)は、戦前の家制度に法的決着をつけたものです。24条が目的としたことは、家制度との明確な決別であったこと、特に家父長制からの女性の解放であったことが当時は憲法学でも確認されていました。

24条は、徹底して個人を尊重するものです。直接の文言は夫婦の関係についてのものですが、家族の中での人間関係の基本を定めています。夫婦も子どもも家族のメンバーとして対等・平等であると宣言していると私は理解しています。家族メンバーすべてが個人として尊重され、その相互の関係に適用したものと説明されています。

戦前から戦中にかけて、日本の家族に求められた役割は、天皇制、つまりは家父長制の社会の仕組みを底辺で支えるものでした。その底辺の底辺に位置づけられていたのが、文字通り「女・子ども」です。

24条の基になったベアテ草案(※編集部注2)は、男性の支配ではなく、結婚する当事者の意思のみ基づいて婚姻は成立することを宣言しています。もっとも尊重されるべき当事者の意思が最も無視されてきた歴史は、日本の女性たちに苦難の婚姻生活を強いました。ベアテ・シロタ・ゴードンさんは「親の強制ではなく相互の合意に基づき、かつ男性支配ではなく両性の協力に基づくべきことをここに定める。これらの原理に反する法律は廃止され、それに変わって、配偶者の選択、財産権、相続、本居の選択、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項を、個人の尊厳と両性の本質的平等の見地に立って定める法律が制定されるべきである」と書いています。

憲法24条は、婚姻の自主性を宣言し、13条及び14条(※編集部注3、4)と共に、個人こそが大事であるとする思想の宣言であり、それこそが新しい民主的な家族及び社会の関係を築くものと期待されました。その宣言によって、家父長制に基づく旧来の家族は、その法的支柱を失い、個人が平等で、尊重されるべきものとする新しい法的支柱が打ち立てられます。個人主義的家族観が求めるべきものとされたのです。これは、当時は女性の解放であったし、家族という関係での個人尊重を築くことは、民主的な社会の基礎であることが確認されたものでした。家族の構成員は、自主的な思考をする人間であり、自分の「頭」を持つことが重要とされたわけです。

戦前、戦中の社会は家族に象徴されたミニ天皇制が積み重ねられていましたが、その基礎にあった家族が大きく変貌したことで社会は個人を尊重する民主的なものを目指しました。そのような家族で育まれる個人は、憲法の平和的生存権を支える存在です。憲法9条を内部から支える人間の育成が、24条の役割でもあります。自分を尊重し、同じように他人を尊重する人間が、求められたのです。

ですから、9条を書き換えただけでは、戦争のできる国は作れません。それを支える人間が必要です。その人間を作るために、憲法24条の「改定」と「家族教育支援法案」が必要とされているわけです。

安保法制法の制定に反対した国民・市民の運動は、憲法24条によって育まれた自立した人々によって担われました。「安保関連法に反対するママの会」が「誰の子どもも殺さない」をスローガンに掲げていましたが、「敵」とされた人であっても、誰の子どもも殺さないと誓える人間は、憲法24条が育てたものです。

家族教育支援法案はまだ正式に示されていませんが、2016年10月段階で知らされた内容によれば、構想されている家族は、憲法24条とは正反対の思想に基づくもののようです。家庭教育の推進が、努力義務とはいえ、義務とされています。地域の人々の連携で取り組むとされるところは、かつての隣組を彷彿とさせます。

公開されている自民党の憲法24条改定後は、現行24条の核心ともいうべき「婚姻は両性の合意のみに基づいて成立する」という規定から「のみ」を削除して、婚姻に当事者以外の介入を許すものとなっています。

家庭教育支援法案も同じ思想にもとづくものでしょう。

この法案を支持する立場の人たちは、どうやら「教育勅語」を、否定するどころか積極的に支持するようです(※編集部注5)。教育勅語の片言隻句を取り出して、今でも通用する道徳が語られているなどと「評価」しています。

例えば「夫婦相和し」というのは、いいことだといいます。しかし、教育勅語が作られ「活用」された歴史の文脈を無視しても議論に乗せられてはいけません。教育勅語の作られた時代は、明白な家父長制の時代であり、女・子どもは、一人前の人間扱いされなかった時代です。「夫婦相和し」の夫婦の、夫と妻の関係はどうであったでしょう。当時の民法は、妻の無能力を規定していて、その理由は「夫婦円満のため」と民法学者が説明していました。妻が、夫にものを言うことは、夫婦円満に反するということが前提とされていたんです。これが、生前の、教育勅語がとなえる「夫婦相和し」の世界です。家族の中の人間関係は、戸主を頂点にしたミニ天皇制であり、序列社会でした。しかも、常に男性が頂点に立ち、女性は常に男性の下という構造です。

家庭教育支援法案が考える家族の関係が、憲法24条のいう個人が尊重される民主的なものである保障はありません。法案によれば、家庭に「支援」という名のもとに行政などの公権力の介入が許されます。介入の対象は「すべての家庭」であり、「日常の子育て」です。子育ては、親の生き方の問題であり、親の思想の問題です。日々、どう生きるかを模索し、実行していく営みです。このような「日常の子育て」は公権力を介入して全国一律のものとすることに最もなじみません。どんな子育てをするかはそれぞれの親の考えによるものであり、国や行政が口出しすべきものではありません。戦後、私たちはそのようにして自分たちの子どもを育ててきました。それで何ら不都合はありませんでした。行政が個人の精神生活でもある子育てや家庭生活に介入することは、国民への思想的介入であり、憲法19条(「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」)を奪うものであり、憲法98条「この憲法は、国の最高法規であって、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部または一部は、その効力を有しない」にも反するものです。

戦時中、国が家庭に介入して国に都合の良い戦士や労働者を育てることを押し付けました。自分で考える力を持たない、国にとって好都合な人間の大量生産がなされたわけです。それらの人々は、国策に無批判に従い、ついにはあの戦争に参加し、場合によっては積極的に、数え切れない死者を国の内外で産みました。まだ70年ほど前のことです。

家族は、兵士と労働者の供給源とされ、「産めよ殖やせよ」と資源としての人間の製造が奨励されました。母は兵士を育てて国に差し出す任務を負わされました。最近の婚活・妊活にも悪夢の時代の再来を感じます。人間を資源扱いすることはあってはなりません。

戦時中、政府は教育を手段として家族道徳に介入しました。

1942年(昭和17年)、文部省社会教育局は「戦時家庭教育指導要領」を公表しています。

「戦時下の家庭教育の政策で問題とされたのは、いかに母親を戦時体制へ動員するかという点であった。家庭教育が国家統制の支配的秩序に組み込まれたことで、母親は戦時動員の対象として前面におしだされることになった」(内田博文「憲法と戦争」みすず書房)

いま起きている「家庭教育支援法案」は、この痛恨の歴史の再現ではないでしょうか。私たちは、戦争を経て、戦前の家庭に介入した教育の間違いであったことを骨身に染みて学んだはずです。愚かにもそれをなかったことにして同じ間違いを繰り返そうとするのでしょうか。歴史に学ばないものは、自分も他者も不幸にします。

家庭教育支援法案が家庭に持ち込まれることになれば、憲法24条が求めている個人の尊厳だけでなく、男女平等も失われるでしょう。自民党の24条改定案は男女平等も否定するものであるからです。再び、女性は男性を頂点とするピラミッドの最底辺に位置づけられることなどあってはなりません。

子どもたちに本当に未来を保証するのであれば、彼らに自由な精神生活と健康で安全な生活を保障しなければなりません。そのためには、ひもじい子どもなど存在させてはなりませんし、好きなだけ勉強もできる環境を整えるべきです。行政のやるべきことは、そのような意味での環境整備であり、親子の精神生活の介入ではありません。税金も、そのような施策にこそ使うべきです。

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(編集部注1:憲法24条「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない)
(編集部注2:ベアテ・シロタ・ゴードンによる、日本国憲法第24条の草案のこと)
(編集部注3:憲法13条「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」)
(編集部注4:憲法14条1項「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」)
(編集部注5:2017年3月、安倍晋三内閣は戦前・戦中に使われていた「教育勅語」を「憲法や教育基本法等に反しないような形で教材として用いることまでは否定されることではない」と閣議決定している)

ご参加ありがとうございました 院内集会 「家庭教育支援法案」の何が問題か?

2018年1月29日(月)に開催した「院内集会「家庭教育支援法案」の何が問題か?」は約80人の市民、メディア、国会議員の参加をいただき、無事終了しました。ありがとうございました。
参加いただいた国会議員は、大河原まさこ衆議院議員(立憲民主党)、尾辻かな子衆議院議員(立憲民主党)、吉良よし子参議院議員(共産党)、仁比聡平参議院議員(共産党)、畑野君江衆議院議員(共産党)、福島みずほ参議院議員(社民党)、宮沢ゆか参議院議員(民進党)でした。
また、糸数慶子参議院議員(無所属)、小池晃参議院議員(共産党)、辻元清美衆議院議員(立憲民主党)、髙木錬太郎衆議院議員(立憲民主党)、高橋千鶴子衆議院議員(共産党)の秘書さんがご参加くださいました。
当日の様子は、東京新聞、赤旗が報じてくれました。後日、詳細な報告がwezzyにアップされる予定です。

<東京新聞>(書き起こし)2018年1月30日朝刊6面

「家庭教育 国の介入許さない」
弁護士が講演 法案反対訴え

自民党が国会提出を目指す「家庭教育支援法案」について、公権力による家庭教育への介入を許しかねないとして反対する集会が29日、東京・永田町の衆院第二議員会館で開かれ、約80人が参加した。

法案は、家庭教育を「父母その他の保護者の第一義的責任」と位置づけ、「子に生活のために必要な習慣を身に付けさせるとともに、自立心を育成し、心身の調和のとれた発達を図るように努める」ことなどを掲げる。国が基本方針を定め、国や自治体の施策への協力を地域住民に求める。

自民党は昨年の通常国会での退出を目指したが、野党の反対などで見送った。

この日の集会は、家族の中の個人の尊厳と男女平等をうたう憲法24条の改定に反対する市民団体「24条変えさせないキャンペーン実行委員会」が主催。講演した角田由紀子弁護士は「法案によれば、支援の名の下に公権力の介入が許されるが、どんな子育てをするかはそれぞれの親の考えによるものだ」と指摘した。

室蘭工業大学大学院の清末愛紗准教授も「法案の目的は愛国心を持つ人材の形成であり、9条の平和主義につながる24条と真っ向から対立する」と批判した。

 

<赤旗>http://www.jcp.or.jp/akahata/aik17/2018-01-30/2018013014_01_1.html

家庭教育支援法案考える集会

「政府が家庭に介入」

「24条変えさせないキャンペーン実行委員会」は29日、衆院議員会館で、院内集会「家庭教育支援法案の何が問題か?」を開きました。自民党が準備している同法案を国会に上程させないために、市民と国会議員が問題を共有しようと、80人が参加しました。

呼びかけ人の角田由紀子氏(弁護士)が「憲法24条と対立する家庭教育支援法案」と題して講演し、憲法24条は戦前の家制度に法的決着をつけたもので、徹底して個人を尊重するものだと指摘。行政のやるべきことは、子どもたちに自由な精神生活と健康で安全な生活を保障するための環境整備だと述べました。

呼びかけ人の清末愛砂氏(室蘭工業大学大学院准教授)が講演。社会は、家族単位ではなく、個人の人格の尊重と尊厳に基づいて形成されるものだと強調し、同法案の問題について、平和主義・自由権・社会権の観点から検証しました。ルポライターの杉山春氏が「家庭教育支援法案によって虐待やネグレクト、引きこもりは防げるのか」と題して講演しました。

日本共産党からは仁比そうへい、吉良よし子の両参院議員と畑野君枝衆院議員が参加し、あいさつ。仁比議員は、政府・与党がめざす同法案は、政府が「家庭教育支援の基本方針」を定め、家庭に介入し、指図しようとするものだと指摘し、「提出を阻止するために、みなさんとともに頑張ります」と述べました。

立憲民主、民進、社民の各党の国会議員が参加・あいさつしました。

(7.7報告④)まやかし「加憲」も「改憲」も、どっちも危ない!-24条が安倍政権と改憲右派に狙われる理由

7月7日に行った集会の報告もこれで最後です。24条改悪の動きと道徳、家庭教育支援法案についての動向報告と質疑応答部分をアップします。

 

24条と道徳、家庭教育支援法案について(キャンペーン事務局から

 「道徳」は、これまで週に1回、「道徳の時間」などでやってきたものですが、2018年度から小学校で、2019年度から中学校で、教科書を使って教え、採点もされる「教科」の1つになります。
 日本では敗戦後、「修身」の停止、「教育勅語」の排除・失効決議を経て、1947年に日本国憲法とともに教育基本法が施行となり、教育の民主化が始まります。その後起こった「逆コース」の流れの中で、戦後民主教育への攻撃、道徳の教科化への圧力もありましたが、子どもたちの道徳心は教科ではなく学校教育全体の中で育むんだということで、58年に「道徳の時間」が作られました。しかしその後90年代後半から、同法見直しの動きが高まり、2006年の教育基本法改悪を経て、2015年の学習指導要領一部改定により、道徳は教科化されたのです。

 そしてこの3月、2020年度以降に使う新しい学習指導要領が出ました。10年ごとに改訂されるものですが、今回の学習指導要領は、安倍政権が06年に改悪した新・教育基本法の内容が十分に反映されたものとなっています。
 来年度から小学校で使われる道徳教科書の検定結果が、やはり3月に出ました。検定対象となった66冊に合計で244件の検定意見がつきました。「パン屋さんを和菓子屋さんに」などの意見がついて話題になりましたが、一冊あたりの検定意見は3.7件。これは異例の少なさだそうですが、文科省がつくった『私たちの道徳』や『小学校道徳読み物資料集』を参考にし、各社横並びで”忖度”した結果だと言われています。たとえば、「かぼちゃのつる」という題材は「わがままな振る舞いは抑える」という徳目として、すべての教科書に掲載されている、というような画一化が起きています。

 改悪された新・教育基本法には、「家庭教育の重要性」が明記されました(第10条)。これにもとづいていくつかの自治体で「家庭教育支援条例」が制定されており、自民党は法案を上程しようと準備しています(昨年秋の素案はこちら)。
 その実施として、たとえば家庭で話したことをレポートにして学校に提出する、など保護者に宿題を出す例が挙げられていて、学校や国などが、家庭に踏み込んで指導、介入しようとする動きが広まることが懸念されます。
 このように、「教育改革」は、子どもだけでなく、家庭や地域=すべての「国民」を巻き込む形で進められようとしています。それは、あるべき「国民」を育成するために、あるべき家族像を規定し、国家権力が望む方向に人々の「生」そのものを誘導していこうとしていく動きではないでしょうか。

 そういう意味で、24条の改悪反対、ということと同時に、この道徳教科化や家庭教育支援法案を含む、私たちの尊厳や生き方を奪うあらゆる動きに対して、きちんと分析し、批判し、抵抗していく必要があると考えています。

 

質疑応答

Q「個別的自衛権は必要だと認めるが集団的自衛権は違憲だ」という1972年の政府見解がありますが、清末さんはどう考えますか。

A 憲法学上の通説に基づけば、これまでの政府見解がどうかという以前に、憲法9条1項2項の解釈は、自衛隊は戦力以外のなにものでもなく、「軍隊」だということ。つまり、集団的自衛権以前の問題だと思います。私は9条を現実的な平和主義という観点から評価しているし、私の立場は、9条1項は戦争や、武力行使、武力による威嚇を全面的に放棄し、戦力に関しても全面的に禁止しており、武力に基づく自衛権を、個別的・集団的に関わらず一切認めない、というもの。少数派の意見ではありますが、これが最も現実的な平和を生み出すものと、私は考えています。(清末)

Q スピリチュアル系と右派のジェンダー観は親和性が高いと思いますが、どう考えますか。

A 右派団体である日本会議にはさまざまな宗教団体が関わっていますが、それらの団体にはある程度共通する価値観があります。とくに、ジェンダー観、家族に関する考え方は共通する点が多く、それが24条を共通の改憲項目としてあげていることにつながっていると思います。 スピリチュアル系にも、そうした宗教的な団体に共通するものと近い価値観を持っている人たちもいるのではないかと思います。(山口)

Q 緊急事態条項が長期政権を招くというプロセスについて、もう少し説明を聞きたいのですが。

A 緊急事態条項が実際に効力を発するときというのは緊急事態宣言がなされたとき。宣言がなされていることを理由に選挙を引き伸ばし、議員の任期を引き伸ばすことによって長期政権の維持が可能になります。その期間には、第二、第三の改憲の発議が可能になるのではないでしょうか。そういう意味で、今回の明文改憲と緊急事態条項の新設は彼らのなかでは一体化したものなのではないかと思っています。(清末)

Q 家庭教育支援法案の関連の話をもっと聞きたいのですが。

A 家庭教育支援関係の先進県である埼玉県庁に取材に行きました。埼玉県は、熱心に家庭教育に関連する取り組みをやっている県です。例えば、学校入学前に子どもたちは健康診断を受けますが、その時間を使って親には「親の学び」という講座を受けさせているということです。また、子どもたちには授業などで「親になるための学び」を受けさせる。こうしたものを受けたい人が受けるのではなく、全員が受けねばならない、ということになると問題も出てくるのではないでしょうか。また、熊本県を皮切りに家庭教育支援条例が成立している県や市町村も多数出てきているので、そうした自治体は条例のもとで家庭教育に熱心に取り組んでいるようです。 このように、家庭教育について先進的試みをしているとされる自治体での取り組みの事例は、家庭教育支援法が通った場合にどういう施策が行われていくかの参考になると思います。(山口)

Q 24条改憲を危惧していても、「家庭や家族は大切だ」と言われると反対しにくいものです。「家族は大切でしょう」とか「あなたは気にしすぎでは?」と無邪気に言う人たちに対して、この状況をわかりやすく伝えていくにはどうしたらいいでしょうか。

A1 PTAなど地域で活動している人たちに、「3世代同居がいい形だ」と政府が推奨する動きがあることを話すと、「ひとり親など、事情もありながらいきいき暮らしている人たちがいるなかで、それは良くない」、と言う人が多いんですね。選択的夫婦別姓についても、「認められないのはおかしい」と言う。私は政治家や右派運動の人よりも、そうした一般の人たちを信用しているんです。話せば伝わるので、臆せずに発信していくことが大事なのではないでしょうか。(打越)

A2 一番有効なのは、家族が大切なら25条に基づく社会保障をもっともっとやれ、と主張することだと思っています。25条が死文化している深刻な状況がありますので、なおさら25条を強調することが重要です。24条は当事者主義に基づいて、さまざまな家族のありかたを可能とする条文です。そうしたさまざまな家族のニーズにあわせた支援を、25条に基づく社会保障の下でやることが求められています。。家族が大事というなら、その方がよっぽど建設的だと思います。(清末)

A3 日本政策研究センターが自民党案を批判してまで24条の「加憲」を主張し始めたのは、やはり自民党案では反発がくることがわかっているからだろうと思います。ただ、24条を現実的に改憲項目にあげた場合、どれほど女性からの反発があるのかは、右派の人たちも読めていないのではないでしょうか。同時に、それにもかかわらず未だに家族のあり方を改憲項目の優先事項としているのは、右派の人たちの家族保護というものへのこだわりが相当強いということでもあると思います。

家庭教育支援関連については、批判するのは難しいところもありますね。でも、先の埼玉の例のように、現実的に何が行なわれているのかをまずは知り、問題点があるのであれば、それを見極めて具体的に指摘していくこと、それが重要ではないかと思います。(山口)

(7.7報告③)まやかし「加憲」も「改憲」も、どっちも危ない!-24条が安倍政権と改憲右派に狙われる理由

打越さく良(弁護士・夫婦別姓訴訟弁護団事務局長)
「本当に、「日本に家族保護条項は必要」なのか?」

 今回は憲法24条に加えることが必要、だと一部で言われている「家族保護条項」について考えてみたいと思います。そのためにここでは、「必要派」の伊藤哲夫氏、岡田邦宏氏、小坂実氏の共著『これがわれらの憲法改正提案だ』(日本政策研究センター、2017年)から、

 小坂氏論文「憲法に『次世代を育成する』家族保護条項を」
と、著者3名による鼎談、
「討議 『改正反対論への反駁3 家族を否定すれば個人の基盤も壊れる』」
をとりあげて検討してみましょう。

 まず、小坂論文は「家族」について「次世代の再生産機能を担う集団」「社会を構成する最も基本的な単位」という2点については「ほぼ普遍的な共通認識」と断言しています。でも、家族の概念は、歴史の中で変わってきています。現代家族に「公序のため」といわんばかりのこれらの旧弊な認識は馴染まないのではないでしょうか。

 また同論文は、「家族保護条項は(世界各国で)ほぼ一様に規定されている」としていますが、「国際人権条約」の家族規定も、各国憲法における家族規定も、様々です。中でも先進資本主義国家型憲法ではむしろ家族の中の個人を守る「母性保護」、「婚外子保護」などを備えるなど、社会権的規定を重視しています。

 そもそも小坂論文は、世界人権宣言等を一部だけ切り取って取り上げる一方で、その前提として同宣言に書かれている「自由、平等」には触れなかったり、より新しく制定された、自己決定権や実質的平等を志向する「女性差別撤廃条約」や、「ILO156号条約」等をすっかり無視したりしています。それは恣意的な取り上げ方ですね。

 そして同論文は少子化対策のために、比較的高い出生率のフランスやスウェーデンのような「家族保護規定」が必要、としていますが、2国とも家族手当や手厚い育児支援、婚外子保護など多様な家族のあり方を尊重していることが高い出生率の背景と言われています。一方日本の晩婚化、晩産化の原因は若い世代の所得の減少や、性別役割分業が未だ強固で女性に家事育児が偏っていること等による部分が大きいもの。右派が主張する、多様な家族や個人の尊厳を否定しかねない家族保護規定は、少子化対策とは逆行するのではないでしょうか。

 実はこの3者による鼎談では、私が「家制度の復活」を目論んでいると彼らを決めつける「デマゴギー」とやり玉に上げられています(笑)。ですが、個人主義を後退させ、共同体としての家族の価値を称揚し、男女不平等に家族における役割を果たせと呼びかけること、また婚姻における平等や当事者の合意という横のつながりではなく、血縁を強調し縦の流れを重視して、孝養、扶養の義務を唱える彼らの考え方は、まさに家制度のエッセンスを復古しようとするものではないでしょうか。

 また、家族の戸主に対する従順と忠実が天皇に対する国民の従属と忠実とパラレルである点も、家族、地域社会、国家における役割を並べて指摘する改憲右派の議論と重なっていますよね。社会福祉政策を充実させるよりその機能を家が肩代わりせよという志向にも、戦前の家制度の残滓を色濃く感じます。

 このように考えると、やはり、「家族保護条項(規定)」は、日本には必要ないものであり、ましてや24条に加える必要などまったくない、と思います。