(赤旗)選択的夫婦別姓 最高裁判所元判事 泉徳治さん 少数意見が多数意見になるまで司法も政治も社会も声あげよう

「赤旗」に、元最高裁判事の泉徳治さんのインタビューが掲載されています。夫婦同姓を義務付ける現行制度を「合憲」とした最高裁判決の問題点について大変わかりやすく、24条の意義についても解説されています。ウェブにもアップされているので、ぜひ!

(2018焦点・論点)選択的夫婦別姓

最高裁判所元判事 泉徳治さん
少数意見が多数意見になるまで司法も政治も社会も声あげよう

https://www.jcp.or.jp/akahata/aik17/2018-03-17/2018031703_02_0.html

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(週刊女性)検証 なぜ国が「家庭」「子ども」に口を挟みたがるのか? 「家庭教育支援法案」「道徳教科化」「青少年健全育成基本法案」

「週刊女性」3月27日号で、家庭教育支援法案、青少年健全育成基本法案、道徳教科化について取り上げられています。1月29日の院内集会での杉山春さんの発言も紹介されています。ぜひ手にとってご覧ください。

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(ウェジー)家庭教育支援法案によって虐待やネグレクト、引きこもりは防げるか―厚木男児遺棄放置事件から【「家庭教育支援法案」の何が問題か?】_杉山春報告

ウェジーによる院内集会「「家庭教育支援法案」の何が問題か?」の報告記事、3回目はルポライターの杉山春さんのお話です。

http://wezz-y.com/archives/52402

1月29日、衆議院第二議会会館にて、自民党が国会提出を目指している「家庭教育支援法案」の問題点や懸念を示す集会が「24条変えさせないキャンペーン」によって開かれた。

2017年2月の朝日新聞によれば、「家庭教育支援法案」には、「家庭教育を『父母その他の保護者の第一義的責任』と位置づけ」、「子に生活のために必要な習慣を身に付けさせる」ことや、支援が「子育てに伴う喜びが実感されるように配慮して行われなければならない」ことなど」が盛り込まれ、さらに素案段階には存在していた「家庭教育の自主性を尊重」が削除されている、という。また、家庭教育の重要性や理解、施策への協力を、地域社会の「役割」(責務から役割に変更された)とも規定されている。

ここからわかることは、「家庭教育支援法案」には保守的な家族規範を強化、公権力が家庭に対して介入する可能性があること、そして地域社会によるプライバシーの侵害や監視社会化など、様々な危険性があるということだ。「家庭教育支援法案」の何が問題か、29日に登壇した弁護士の角田由紀子さん、室蘭工業大学大学院准教授の清末愛砂さん、ルポライターの杉山春さんの発表の様子をお送りする。

家庭教育支援法案は、再び「女・子ども」を底辺に押しやりかねない
家庭教育支援法案が家庭内の暴力防止になりえない理由
家庭教育支援法案によって虐待やネグレクト、引きこもりは防げるか

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ルポライターの杉山春です。私は今まで児童虐待について3つの事件を取材してきました。今日は、現実でどういうことが起きていて、子どもがどういう形で亡くなっていくのかについてお話したいと思っています。

2000年、児童虐待防止法が作られた年に、愛知県武豊町で3歳の女の子がダンボールに入れられ餓死するという事件がありました。この事件について私は『ネグレクト 真奈ちゃんはなぜ死んだか』(小学館文庫)という本で発表しています。それから10年後、大阪府西区で3歳の女の子と1歳半の男の子が、風俗店の寮に50日間放置され亡くなった事件を取材し『ルポ虐待 大阪二児置き去り死事件』(ちくま新書)を書きました。そして昨年12月に出した『児童虐待から考える 社会は家族に何を強いてきたか』(朝日新書)では、2014年に厚木市で発覚した事件について書きました。今日はこの厚木事件についてお話をします。

厚木事件は、5歳の頃に亡くなった男の子が、7年4カ月間、厚木市内のアパートに放置され、白骨死体で見つかったというものです。家はゴミ屋敷で、子どもが出ていけないように外側から扉に粘着テープも貼り付けられていて、当時37歳だったトラック運転手のお父さんを「本当に酷い父親だ」と批判する報道がなされていました。

一審の裁判では、子どもは亡くなる1カ月間前にはガリガリの姿をしていたはずで、医者に見せることも家族にSOSを出すこともしていなかったのは殺意があったからだ、ということで、お父さんには殺人罪として19年という非常に重い判決が下っていました。

実は私は厚木事件に直接関わってしまっています。最初の判決の後、亡くなった男の子は白骨遺体で見つかっているため、本当にガリガリだったのかわからないのではないかということを法医学の先生たちから伺い、弁護士に伝えました。どんなにまるまるとした男の子だったとしても、7年も経てばそのことがわからないような姿になってしまうそうです。二審では、保護責任者遺棄致罪として、12年の判決が下っています。

厚木事件が他の事件に比べて特徴的なのは、お父さんが子どもの存在を一切周囲に伝えていなかったことです。一度だけ、お母さんが子どもを置いて家出したときに、児童相談所に繋がってはいるのですが、そのときは迷子ということにされ、児童虐待という判断はされませんでした。そのため社会が、この家に子どもがいること、困っている家族がいるかもしれないということがわかっていなかったんです。

裁判を傍聴する中で、この家は雨戸が締められ、真っ暗闇のゴミ屋敷で、電気、ガス、水道も止められていたこと、父親はそんな家に2年間、朝晩帰っていたこと、子どもにはおにぎりやパン、コンビニ弁当や飲み物を与え、おむつも替えていたこと、一緒に寝たり遊んでいたりした形跡があることなどがわかってきます。

はたから見れば圧倒的に不思議な子育てですが、実はお父さんには軽度な知的障害がありました。知的なハンディがある中で子育てをしている方への支援者に取材したところ、知的なハンディは、トラック運転のような具体的なことはできても、自分や子どもが将来どうなっていくのかなど将来を見通すことや、必要な情報を社会からとってくるといったことが苦手だそうなんです。

実際、このお父さんはトラック運転手としては評価Aを得ていたそうです。求められることには従順なのですが、いま何に困っているのか、どういう支援がほしいのかといったことを社会に向かっては言えないタイプのお父さんだったんですね。亡くなった男の子はもう少ししたら小学校に入るはずだったのですが、深く考えたことはなかったと言っていました。児童相談所があることも知りませんでしたし、保育園のことは知っていても、早朝の仕事なので無理だと思った、とも言っていました。

もうひとつ裁判の中で明らかになったことは、お父さん自身も精神障害を持っているお母さんに育てられていた、ということです。私はお父さんと拘置所で話したり、手紙でやりとりをしたりもしています。いろいろと質問する中で、お父さんに「あなたの小さい時の記憶は何歳からありますか?」と聞いたところ、「12歳」と答えました。1歳年下の妹さんに同じ質問をすると、「11歳」と答えます。この年齢というのは、お母さんの病気が明らかになり病院に入院し、家庭の中におばあちゃんが入っていった年なんです。「あなたは小さい時に三度三度ご飯を食べていましたか?」と聞いても、「記憶にない、おばあちゃんが家に来てからは三度三度ご飯を食べていた」と答えていました。

子育てというのは、親からしてもらったことをするところがあります。ですからこのお父さんのように、母親の記憶がない中での子育てというのはとても難しいところがあります。

また、お父さんは県立高校卒業後、専門学校にはかなり無理な入り方をしていて、片道3時間もかかるような学校に通っていました。もしかしたらご家族にも、判断をする力がなかったのかもしれません。そういう中で、高校にも通えなくなってしまい、社会にうまく繋がっていけなくなってしまいます。

退学後、お父さんはアルバイトを経て、ペンキ職人になります。ところがペンキ職人は、雨が降ると仕事がなくなってしまうため、収入も減ってしまいます。また、その頃に17歳の女の子が転がり込んできて妊娠します。周囲に認めてもらい結婚し、家族を作るのですが、お金が足りなくなることも増え、借金の問題を抱えるようになります。そこで正社員のトラック運転手に転職しました。

トラック運転手というのは、荷待ちなどがあるため、293時間という長い拘束時間が公的に許されている職業なんですね。次第に、夫婦間の喧嘩も増え、10代のお母さんと23歳のお父さんはうまく子育てができず、さらに実家との関係もよくない、という孤立状態に置かれていきます。そして、お母さんは家を出ていき、残されたお父さんは先程お話したような子育てを2年間続けていました。

愛知県武豊町で事件が起きた2000年に比べて、現在は公的な支援も多様になり、研究も進んでいます。そうした中で、子どもを殺してしまうほどの親というのは、実は幼いときから社会に助けられた経験がなく自分たちの思いに親が応えてくれた経験もなかったことがわかってきています。社会への不信感がとても強く、さらに「家族であれば子育てをきちんとしなければいけない」という感受性を、どの事件の親も持っている。だからこそ、自分が子育て出来ていないこと、うまく生きられない自分を隠してしまう、そして子どもがネグレクトされてしまうんです。

家族規範は昔よりゆるくなっていると感じている方もいるかもしれませんが、現場で取材をしていると、お母さんであれば子育て出来なければいけないとか、家族でしっかり子育てしなければいけないという思いを強く持っている方は多くいます。そんな人たちに「あるべき家族像」を示したとしても、助けを得られるということも知らないわけですから、その家族像に自分を当てはめようと今まで以上に頑張ってしまいかねません。

大阪の事件では「子どもを放置した風俗店の女性」と報道されていましたが、取材してみると、お母さんとして頑張っている時期があったんです。頑張れていたときは、生活している町が用意している子育て支援のメニューを全て使っていて、頑張れなくなったときに公的な支援に頼れなくなっていったことがわかってくるんですね。

虐待事件を取材する中でお伝えしたいことは、子どもを虐待死させた親は子どもをしっかり育てたいと思っていた時期もあったということです。でも、困難な家ほど、家族規範が強く、自分ひとりで頑張ろうとしてしまう。社会に向かって必要な情報や権利をとってくるというのは知的な能力や他者とのコミュニケーション能力を必要とすることです。そういう力が乏しければ乏しいほど、家族規範や社会規範を内面化し、「一生懸命頑張ればうまくいくはずだ」と思い、どんどん追い詰められていくのだと思います。

最後に、厚生労働省が昨年8月に出した、「新しい社会的養育ビジョン」についてお話させてください。

この「新しい社会的養育ビジョン」と家庭教育支援法案は、どちらも家庭の中に公的な権力が入っていくものとして不安を抱く人がいるかもしれません。違いが見えにくい部分があるのですが、「新しい社会的養育ビジョン」は、家族で完結して子育てしなければいけないという価値観は、社会の周辺部で、いろいろな意味での困難を抱える人達にはもう無理だということで、どういう支援を入れるべきかを考えるための新しい動きなんですね。育児が困難な家庭から子どもを引き取ってしまえ、という話ではなく、地域の中で子どもも親も支援していこうというものです。家族規範に縛られて子どもに適切なケアができなくなっている家族に、子どもを権利の主体として、最善の利益を実現するために、その家族が必要とする支援を届けることを考えています。

誤解されたまま、「新しい社会的養育ビジョン」が潰されてしまう可能性もあるので、家庭教育支援法案とは違うものだと理解していただければ、と思います。

(ウェジー)家庭教育支援法案が家庭内の暴力防止になりえない理由【「家庭教育支援法案」の何が問題か?】_清末愛砂報告

ウェジーによる院内集会「「家庭教育支援法案」の何が問題か?」の報告記事、2回目は清末愛砂さんのお話です。

http://wezz-y.com/archives/52401

家庭教育支援法案が家庭内の暴力防止になりえない理由【「家庭教育支援法案」の何が問題か?】

1月29日、衆議院第二議会会館にて、自民党が国会提出を目指している「家庭教育支援法案」の問題点や懸念を示す集会が「24条変えさせないキャンペーン」によって開かれた。

2017年2月の朝日新聞によれば、「家庭教育支援法案」には、「家庭教育を『父母その他の保護者の第一義的責任』と位置づけ」、「子に生活のために必要な習慣を身に付けさせる」ことや、支援が「子育てに伴う喜びが実感されるように配慮して行われなければならない」ことなど」が盛り込まれ、さらに素案段階には存在していた「家庭教育の自主性を尊重」が削除されている、という。また、家庭教育の重要性や理解、施策への協力を、地域社会の「役割」(責務から役割に変更された)とも規定されている。

ここからわかることは、「家庭教育支援法案」には保守的な家族規範を強化、公権力が家庭に対して介入する可能性があること、そして地域社会によるプライバシーの侵害や監視社会化など、様々な危険性があるということだ。「家庭教育支援法案」の何が問題か、29日に登壇した弁護士の角田由紀子さん、室蘭工業大学大学院准教授の清末愛砂さん、ルポライターの杉山春さんの発表の様子をお送りする。

家庭教育支援法案は、再び「女・子ども」を底辺に押しやりかねない
家庭教育支援法案が家庭内の暴力防止になりえない理由

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室蘭工業大学大学院の清末愛砂です。私は家庭教育支援法案の問題点について、日本国憲法の観点から説明したいと思います。

家庭教育支援法案は主には前文、9条、13条、24条、25条に抵触する可能性が非常に強いと思っています。憲法98条は「日本国憲法が最高法規である。その条規に反する法律等は、その効力は有しない」ことを規定しています。また前文でも第一段で「日本国憲法の原理に反する一切の法令を排除する」ことが明記されています。家庭教育支援法は、前文の段階で成立し得ないものだと私は考えています。

ではなぜこれらの憲法上の規定に反するのかという点を「平和主義」「自由権」「社会権」の観点から話したいと思います。

まず「個人の尊重」を謳っている憲法13条と「個人の尊厳」を謳っている憲法24条の違いについてお話します。これらふたつを共に考えることによって、社会は家族ではなく個人によって形成されているものだということを再確認できます。

憲法13条:すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

憲法24条:婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。

私は「個人の尊重」は自己決定権のことであり、「個人の尊厳」とは「侵してはならないもの。侵されたときには抵抗し、救済措置を求めることが出来るもの」だと思っています。大日本帝國では、家族が社会の基礎単位として位置づけられ、個人の人格が蹂躙されていました。「家庭生活における個人の尊厳と両性の本質的平等」を明確に謳っている24条の大きな意義のひとつは、大日本帝國のあり方を否定していることにあります。日本国憲法では、個人の人格の尊重と尊厳に基づいて社会や家族が形成されることを、日本のあり方として示しているわけです。

以上を踏まえた上で、平和主義の観点から考えていきましょう。

一般的に日本国憲法の平和主義というのは、前文と9条だけでイメージされることが多いと思います。しかし憲法学者によって解釈に違いはありますが、日本国憲法の平和主義は前文と9条だけで達成できるものではありません。前文、9条、13条、法の下の平等を謳う14条、24条、そして生存権が書かれている25条によって、成り立っているものだと私は考えています。

そもそも日本国憲法の原理のひとつである平和主義のオリジナルな意味は、非暴力な手段によって非暴力な社会を作る、ということにあります。その観点から考えてみると、戦争がないことだけが平和を意味するわけではないことがわかります。家庭生活で様々な暴力や差別が存在するのであれば、その被害を受けている者にとっては、そのような生活は平和なものとはいえません。

憲法24条は、平和主義の観点から様々な形態の家族に対し主には次の2点を求めていると思います。まずは、いまお話したように、戦場で武器を持って戦うこと、家庭内のDVなどを含む各種の暴力に依拠しない人間を育てる場としての家族になる、ということ。そしてもうひとつが、軍国主義、愛国心を強制しようとする国家政策に従わない人間を育てる場としての家族になる、ということです。すなわち、自立した非暴力な権利主体としての個人を形成することを24条は求めているわけですね。

しかし家庭教育支援法というものは、明らかに現行の教育基本法とセットとなって、愛国心を強化するツールとして使われる可能性があります。私は、家庭教育支援法案の目的は、愛国心を有する人材の形成を、家庭教育を通して行うことにあると思っています。これは24条の平和主義と真っ向から対立するものです。また、子育てする家族に対して愛国心を植え付ける教育を押し付けるような法律は、憲法19条が保障する「思想・良心の自由」を否定することにもなるでしょう。

最後に、自由権と社会権について、です。

自由権と社会権の違いを非常に簡単に説明すると、自由権は公権力の支配から自由であること、介入を受けないことで個人の人権を保障するという19世紀以降に発展してきた考え方です。一方の社会権は、公権力が弱い立場にある労働者の権利や人々を貧困等から救済するための社会保障制度等を導入すること、すなわち公権力の介入により人権を保障するという20世紀以降に発展した考え方です。共通する目的は、基本的人権の保障にあります。

自由権は、全ての者の権利を保障する土台にはなりますが、これだけでは例えば表現の自由を悪用してヘイトスピーチを垂れ流したり、それを扇動するような人や労働者を搾取して利益をむさぼるような強者の立場にいる者を利することになりかねません。だからこそ、社会的に弱い立場に置かれている人たちの権利を保障するための社会権が必要となってくるわけです。

一見ぶつかりあうようにみえる自由権と社会権ですが、自由権を意識した上で、その権利を正当に行使できる社会環境を整えていくための制度づくりを求める権利が社会権になります。これを具体化するための政策を考え、実施することが求められます。この発想から、家庭教育支援法案の問題点を指摘していきます。

家庭教育支援法案ではその目的として、家庭と地域社会との関係が希薄になったことで家庭を巡る環境が変化したために、家庭教育を支援することが掲げられています。ここには、家族の絆と地域における繋がりを強化しようとする発想がみられます。このような発想は、家族の助け合いの名の下で社会保障を削減する危険性を持つものです。つまり社会権の否定になりかねないものなのです。地域社会でいろいろなコミュニティが助け合いをすることは大切ですが、下手をすれば地域の中で監視し合うといった、大日本帝國時代の「隣組」のようなものになる可能性すらあります。

「児童虐待が起きている家族への介入を認めないのか」「家庭教育支援法案によって、家族内で起きている暴力を早期発見できるのではないか」と主張する人もいるでしょう。しかし私はこうした主張に対し、社会権の一環として行う介入と家庭教育支援法案に基づく介入はまったく違うものだと反論します。

先程も言った通り、社会権と自由権はともに基本的人権の保障を目的としているものの、ベクトルの向きが異なります。もしも「児童虐待を防止するために公権力の介入は必要か」と問われれば、私は「必要だ」と答えます。しかしそれは自由権を否定することを意味しません。むしろ広い意味での社会権として弱者を救済するためには、何らかの介入が必要と考えています。

ポイントは、虐待などを防止するためには、家庭教育支援法案のような問題のあるものではなく、24条の立法精神に基づき、生存権を規定する25条の下で、児童虐待防止法や児童福祉法などの個別法を拡充させていくことにあります。また、深刻な問題となっている女性と子どもの貧困についても、生活保護や就労支援策を拡充していかなければならないと考えますが、これは家庭教育支援法案とはまったく関係のない問題です。

家庭教育支援法案は他にも問題があります。この法案には、父母その他の保護者を対象に、自立心を育成し心身の調和の取れた発達を図ることを目指すとありますが、これは国家が一律に父母その他の保護者に対し理想的な家族像を上から示すこと、すなわち公的に求められる家族像を一方的に示す手段になりかねません。したがって、自由権を脅かす法律になる可能性もあるのです。

社会権と自由権というベクトルの向きが異なるものを、公的介入という一つの言葉によって「家庭内で起きている児童虐待等の暴力の早期発見に繋がる」と取り違えてしまうと、愛国心の強化や改憲の外堀を埋めることを目的としている家庭教育支援法案の罠にはまります。本日私が行いたかった問題提起の核心はこの点にあります。

(ウェジー)家庭教育支援法案は、再び「女・子ども」を底辺に押しやりかねない【「家庭教育支援法案」の何が問題か?】_角田由紀子報告

24条キャンペーン主催の院内集会の模様を、ウェジーがアップしてくれました! 角田由紀子さん、清末愛砂さん、杉山春さんの報告が、ほぼそのまま、3回にわけてアップされます。ぜひ広めてください。

http://wezz-y.com/archives/52400

家庭教育支援法案は、再び「女・子ども」を底辺に押しやりかねない【「家庭教育支援法案」の何が問題か?】

1月29日、衆議院第二議会会館にて、自民党が国会提出を目指している「家庭教育支援法案」の問題点や懸念を示す集会が「24条変えさせないキャンペーン」によって開かれた。

2017年2月の朝日新聞によれば、「家庭教育支援法案」には、「家庭教育を『父母その他の保護者の第一義的責任』と位置づけ」、「子に生活のために必要な習慣を身に付けさせる」ことや、支援が「子育てに伴う喜びが実感されるように配慮して行われなければならない」ことなど」が盛り込まれ、さらに素案段階には存在していた「家庭教育の自主性を尊重」が削除されている、という。また、家庭教育の重要性や理解、施策への協力を、地域社会の「役割」(責務から役割に変更された)とも規定されている。

ここからわかることは、「家庭教育支援法案」には保守的な家族規範を強化、公権力が家庭に対して介入する可能性があること、そして地域社会によるプライバシーの侵害や監視社会化など、様々な危険性があるということだ。「家庭教育支援法案」の何が問題か、29日に登壇した弁護士の角田由紀子さん、室蘭工業大学大学院准教授の清末愛砂さん、ルポライターの杉山春さんの発表の様子をお送りする。

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弁護士の角田由紀子です。

憲法24条(※編集部注1)は、戦前の家制度に法的決着をつけたものです。24条が目的としたことは、家制度との明確な決別であったこと、特に家父長制からの女性の解放であったことが当時は憲法学でも確認されていました。

24条は、徹底して個人を尊重するものです。直接の文言は夫婦の関係についてのものですが、家族の中での人間関係の基本を定めています。夫婦も子どもも家族のメンバーとして対等・平等であると宣言していると私は理解しています。家族メンバーすべてが個人として尊重され、その相互の関係に適用したものと説明されています。

戦前から戦中にかけて、日本の家族に求められた役割は、天皇制、つまりは家父長制の社会の仕組みを底辺で支えるものでした。その底辺の底辺に位置づけられていたのが、文字通り「女・子ども」です。

24条の基になったベアテ草案(※編集部注2)は、男性の支配ではなく、結婚する当事者の意思のみ基づいて婚姻は成立することを宣言しています。もっとも尊重されるべき当事者の意思が最も無視されてきた歴史は、日本の女性たちに苦難の婚姻生活を強いました。ベアテ・シロタ・ゴードンさんは「親の強制ではなく相互の合意に基づき、かつ男性支配ではなく両性の協力に基づくべきことをここに定める。これらの原理に反する法律は廃止され、それに変わって、配偶者の選択、財産権、相続、本居の選択、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項を、個人の尊厳と両性の本質的平等の見地に立って定める法律が制定されるべきである」と書いています。

憲法24条は、婚姻の自主性を宣言し、13条及び14条(※編集部注3、4)と共に、個人こそが大事であるとする思想の宣言であり、それこそが新しい民主的な家族及び社会の関係を築くものと期待されました。その宣言によって、家父長制に基づく旧来の家族は、その法的支柱を失い、個人が平等で、尊重されるべきものとする新しい法的支柱が打ち立てられます。個人主義的家族観が求めるべきものとされたのです。これは、当時は女性の解放であったし、家族という関係での個人尊重を築くことは、民主的な社会の基礎であることが確認されたものでした。家族の構成員は、自主的な思考をする人間であり、自分の「頭」を持つことが重要とされたわけです。

戦前、戦中の社会は家族に象徴されたミニ天皇制が積み重ねられていましたが、その基礎にあった家族が大きく変貌したことで社会は個人を尊重する民主的なものを目指しました。そのような家族で育まれる個人は、憲法の平和的生存権を支える存在です。憲法9条を内部から支える人間の育成が、24条の役割でもあります。自分を尊重し、同じように他人を尊重する人間が、求められたのです。

ですから、9条を書き換えただけでは、戦争のできる国は作れません。それを支える人間が必要です。その人間を作るために、憲法24条の「改定」と「家族教育支援法案」が必要とされているわけです。

安保法制法の制定に反対した国民・市民の運動は、憲法24条によって育まれた自立した人々によって担われました。「安保関連法に反対するママの会」が「誰の子どもも殺さない」をスローガンに掲げていましたが、「敵」とされた人であっても、誰の子どもも殺さないと誓える人間は、憲法24条が育てたものです。

家族教育支援法案はまだ正式に示されていませんが、2016年10月段階で知らされた内容によれば、構想されている家族は、憲法24条とは正反対の思想に基づくもののようです。家庭教育の推進が、努力義務とはいえ、義務とされています。地域の人々の連携で取り組むとされるところは、かつての隣組を彷彿とさせます。

公開されている自民党の憲法24条改定後は、現行24条の核心ともいうべき「婚姻は両性の合意のみに基づいて成立する」という規定から「のみ」を削除して、婚姻に当事者以外の介入を許すものとなっています。

家庭教育支援法案も同じ思想にもとづくものでしょう。

この法案を支持する立場の人たちは、どうやら「教育勅語」を、否定するどころか積極的に支持するようです(※編集部注5)。教育勅語の片言隻句を取り出して、今でも通用する道徳が語られているなどと「評価」しています。

例えば「夫婦相和し」というのは、いいことだといいます。しかし、教育勅語が作られ「活用」された歴史の文脈を無視しても議論に乗せられてはいけません。教育勅語の作られた時代は、明白な家父長制の時代であり、女・子どもは、一人前の人間扱いされなかった時代です。「夫婦相和し」の夫婦の、夫と妻の関係はどうであったでしょう。当時の民法は、妻の無能力を規定していて、その理由は「夫婦円満のため」と民法学者が説明していました。妻が、夫にものを言うことは、夫婦円満に反するということが前提とされていたんです。これが、生前の、教育勅語がとなえる「夫婦相和し」の世界です。家族の中の人間関係は、戸主を頂点にしたミニ天皇制であり、序列社会でした。しかも、常に男性が頂点に立ち、女性は常に男性の下という構造です。

家庭教育支援法案が考える家族の関係が、憲法24条のいう個人が尊重される民主的なものである保障はありません。法案によれば、家庭に「支援」という名のもとに行政などの公権力の介入が許されます。介入の対象は「すべての家庭」であり、「日常の子育て」です。子育ては、親の生き方の問題であり、親の思想の問題です。日々、どう生きるかを模索し、実行していく営みです。このような「日常の子育て」は公権力を介入して全国一律のものとすることに最もなじみません。どんな子育てをするかはそれぞれの親の考えによるものであり、国や行政が口出しすべきものではありません。戦後、私たちはそのようにして自分たちの子どもを育ててきました。それで何ら不都合はありませんでした。行政が個人の精神生活でもある子育てや家庭生活に介入することは、国民への思想的介入であり、憲法19条(「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」)を奪うものであり、憲法98条「この憲法は、国の最高法規であって、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部または一部は、その効力を有しない」にも反するものです。

戦時中、国が家庭に介入して国に都合の良い戦士や労働者を育てることを押し付けました。自分で考える力を持たない、国にとって好都合な人間の大量生産がなされたわけです。それらの人々は、国策に無批判に従い、ついにはあの戦争に参加し、場合によっては積極的に、数え切れない死者を国の内外で産みました。まだ70年ほど前のことです。

家族は、兵士と労働者の供給源とされ、「産めよ殖やせよ」と資源としての人間の製造が奨励されました。母は兵士を育てて国に差し出す任務を負わされました。最近の婚活・妊活にも悪夢の時代の再来を感じます。人間を資源扱いすることはあってはなりません。

戦時中、政府は教育を手段として家族道徳に介入しました。

1942年(昭和17年)、文部省社会教育局は「戦時家庭教育指導要領」を公表しています。

「戦時下の家庭教育の政策で問題とされたのは、いかに母親を戦時体制へ動員するかという点であった。家庭教育が国家統制の支配的秩序に組み込まれたことで、母親は戦時動員の対象として前面におしだされることになった」(内田博文「憲法と戦争」みすず書房)

いま起きている「家庭教育支援法案」は、この痛恨の歴史の再現ではないでしょうか。私たちは、戦争を経て、戦前の家庭に介入した教育の間違いであったことを骨身に染みて学んだはずです。愚かにもそれをなかったことにして同じ間違いを繰り返そうとするのでしょうか。歴史に学ばないものは、自分も他者も不幸にします。

家庭教育支援法案が家庭に持ち込まれることになれば、憲法24条が求めている個人の尊厳だけでなく、男女平等も失われるでしょう。自民党の24条改定案は男女平等も否定するものであるからです。再び、女性は男性を頂点とするピラミッドの最底辺に位置づけられることなどあってはなりません。

子どもたちに本当に未来を保証するのであれば、彼らに自由な精神生活と健康で安全な生活を保障しなければなりません。そのためには、ひもじい子どもなど存在させてはなりませんし、好きなだけ勉強もできる環境を整えるべきです。行政のやるべきことは、そのような意味での環境整備であり、親子の精神生活の介入ではありません。税金も、そのような施策にこそ使うべきです。

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(編集部注1:憲法24条「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない)
(編集部注2:ベアテ・シロタ・ゴードンによる、日本国憲法第24条の草案のこと)
(編集部注3:憲法13条「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」)
(編集部注4:憲法14条1項「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」)
(編集部注5:2017年3月、安倍晋三内閣は戦前・戦中に使われていた「教育勅語」を「憲法や教育基本法等に反しないような形で教材として用いることまでは否定されることではない」と閣議決定している)